原城で島原の乱を想像しキリシタン弾圧について考えた

   2017/02/02


島原の港から海岸線のバスに揺られて50分程

原城 へ到着です。

随分前から一度訪ねてみたかった場所。

 

1637年11月から翌年2月まで
島原の乱で28000人もの人たちが
籠城した場所です。

 

島原の乱とは?

肥前(長崎県)の島原半島と
肥後(熊本県)の天草地方には、キリスト教信者がたくさんいました。

これらの地方は
キリシタンで大名の領地で
人々は、強い信仰を持って
穏やかに暮らしていました。

ところが、キリスト教の弾圧が始まりました。

そして、島原、天草へは
新しい領主が移ってきました。

江戸時代のはじめは幕府は諸大名の力を抑えるために、諸藩に本来より多い石高
を設定していました。

島原も天草も作物に適していない地の上に
新しい領主の
年貢の取立てをとても厳しまりました。

不作が続いても、年貢を軽くすることはありませんでした。


島原・天草の農民たちはこの重い年貢に苦しんでいました。
そして年貢を
完納できない農民に対してしばしば見せしめにひどい刑罰が加えられました。

特に天草地方は元々キリスト教信者が多かったところで
この追求も厳しいものでした。

島原では改宗を拒否した信者の大量虐殺がおこなわれています。


このようにして農民の不満がたまったころ
1634年から1637年までひどい凶作が続きましたが
凶作でも年貢の量は変わらず、餓死者が相次ぎます。

農民たちの苦しみも限界になっていきます。

 

天草四郎の登場

そのあと、16歳の少年 天草四郎を中心に一揆へと続いていきます。

苦しみの限界の中にあった農民たちが、苦しさに耐え兼ねて
役人や領主に、激しく手向かい一揆をおこしました。

一揆の頭に、16才の少年天草四郎が選ばれました。


天草四郎は総大将となり、一揆を指揮・指導し
一揆軍を統合して原城に籠城し


しかし、1638年4月12日
肥後藩士・陣佐左衛門によって城内にて斬首されてしまいました。

 

原城とは

島原半島の南部に位置し有馬貴純によって築かれました。

有馬氏が日向国延岡城に転封となった後に松倉重政が日野江城に入城するが
一国一城令の影響もあり不便な日野江城を放棄し島原城を築城しました。

この際に原城も廃城となり、石垣や構築物も転用されたと言われています。

原城跡は国の史跡に指定されましたが
島原の乱で惨殺された一揆軍の遺骨や鉛の弾丸、クルスの他、万人坑が出土しているそうです。


本丸に礼拝堂を設け日夜祈祷を行い、軍の士気と信仰を深めました。

籠城中は、各村ごとに場所を決めての戦いです。


断崖も確認。
オランダ船は、どこからキリシタンの籠城組に大砲を放ったのでしょうか。


さいごに長崎ちゃんぽん

そして、口之津へ移動し
お昼にチャンポン。

やはり、ラーメンやちゃんぽん、多いですね。


美味しかった。

原城を実際に歩いたことで
島原の乱が本の上だけでなくて
実感として感じられました。
すこしだけ。

映画「沈黙」はこちら

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